唯己論

 ビジネス街にある、一面ガラス張りの小さなバーで、ブレット・マッケンジーはギムレットをあおっていた。外をみやると、間断なく降り続ける霧雨のせいか、はたまた酒のせいか、街の景色は朦朧としている。

 ——ドアベルを鳴らし、一人の男がバーを訪れた。その男はまるで、英国紳士のイメージを具現化したような、気品溢れるオーラを纏っていた。ブレットは彼を一瞥し、軽く値踏みしてみた。
 見た目からして男は50代後半。俺と同じくらいか?スーツは上等な品だ、シワひとつない。恐らく、俺なんかよりも身分のお高い人間なのだろう。
 服装だけでなく歩き方や、スツールに腰を掛ける動作等にも、男の上品さが表れていた。

「マスター、“ピル・オーティー”を頼む」
 ブレットは男の注文をきき、嘲るように笑った。
「“ピル・オーティー”だって?そりゃあんた、ゲイの飲むもんだぜ。カクテル言葉は“アタシを一人にしないで”だ」
 ブレットは泥酔して、顔が真っ赤になっていた。例え自分より品性のある、その男を嫉視していなくても、あるいはその男が品性のない人間だったとしても、今の彼はみだりになじっていただろう。とにかくブレットは荒れていた。
 男は彼の飲むカクテルを一瞥して言う。
「このカクテルには、そんな意味があったんだね。勉強になったよ。まあ、それにしてもまだ“ギムレットには早すぎる”時間帯だと思うけど」
 ブレットは、ニヤリと口角を上げ彼を指差した。だがその指はフラフラで、正確に男を捉えてはいない。
「“チェンドラー”だ。そのくらい、知ってるぞ。れえもんど・ちぇんどらぁーの長い......なんとかって小説だろ。俺を学のない人間だとして、バカにしようってんだろ。え?」
「偏執的だよ」 

 男は灰皿に手を伸ばし、スーツの内ポケットから葉巻箱を取り出した。すると、後ろから指の細くて真っ白な手が、彼の頬を撫でた。
「おじさん。それ、一本くださらない?」
 男が後ろを振り向くと、ぱっと見積もって二十代後半くらいの、ブロンドヘアが若々しく輝く女性が立っていた。
 男が葉巻を手渡すと、女性は男の頬に軽くキスをして、カウンターの奥にある手洗い場まで、真っ直ぐと歩いていった。
「美しい女性だ。二つ前の妻に似ている」と、男はブレットの方を振り向くと、“さっきまで何ともなかった筈”のブレットの頬に切り傷が現れ、血が流れ出ていた。男は驚いて言葉をつぐんだ。 
 ブレットが血を手で拭うと、切り傷は一瞬の内に乾いていき、かさぶたと化した。
「あんた、あの女が見えるのか?」
 さっきまでの、酔っ払いのブレットとはうって変わり、彼は辛辣な表情をしていた。
「あぁ」と男は上ずった声で返答する。
 ブレットは大きく鼻をならし、両手で自分の顔を覆うように撫でた。
「あれは、おれだけの幻影だと思っていた。そうか......実存したんだな」
「どういうことだ?」と男が震えた声で尋ねる。
 まだ目の前で起こった神秘現象を、理解しきれていない様子だった。
「彼女は俺のワイフだ。“元”な」
「元?別れたのか?」
 男が再び訊く。さっきの衝撃的な出来事が強すぎて、二人の歳の差などは気にもならなかった。

 ブレットは、しゃがれた声で話を始めた。目はどこか遠くを見ているようで、その表情はどっと老け込んだかのように、疲れきっていた。
「そうじゃない。いや、別れはしたが、実際に別れられなかった。俺と彼女の間には、五歳の息子がいたんだ。だが俺は定職に就かず、彼女が水商売をする金で生活していた。所謂ヒモだ。」
 男には話が読めなかった。子供がいるのに、働かずにブラブラしていて愛想をつかれて逃げられた、という話なら分かる。だが彼は“別れはしたが、実際に別れられなかった”と答えてる。
 どういうことだ?形式上では別れたが、家に居座ったという話だろうか?それとも、彼はまだ酔っぱらっているのかもしれない。

「ある日、彼女と俺は仕事の事で揉めて、激しい口論になった。——そして彼女はキッチンへ行き、ナイフを手に取った。その時つけられた傷がこれさ」
 ブレットは頬の傷に軽く触れた。男は固唾を呑んで、話に聞き入った。ブレットは鼻で息を吸い込んだ。その間が、男には長い沈黙のように感じた。
「それで、俺は......彼女を押さえつけようとした。だが、ナイフを無造作に振り回す彼女を止めるのは不可能だった。俺は——いつのまにか壁際まで追いやられていた。弾んだ息で俺に詰めよる、彼女のヒステリックな形相は、今思い出しても恐ろしく感じる。
——逃げ場がない。殺られる。俺は一瞬にして死を悟った。ふと、手を伸ばした先に、小さな木製のバットがあることに気づいた。それは五歳になる息子に、野球を教えてやろうと二人で選んだプレゼントだった。俺は......俺はそれを強く握りしめ、彼女の頭目掛け、力の限り振った。小さな木製バットは音を立てて折れ、彼女は俺の前に倒れた。」
「それじゃあ、まさか......」
 男の声はさっきよりも震えていて、半分吃り声のようになっていた。
 ブレットは無言で彼に頷き返す。
「だが、だとすると彼女は——」
「彼女は俺の前でのみ現れる。だから俺は幻影だと思っていた。俺の妄想上の産物だと......」
 男は席を立ち上がり、早足で便所へと向かった。男女兼用であるそのトイレのドアに、鍵はかかっておらず、男は手を震わせながらドアノブを掴んだ。そして、勢いよくドアを開ける。

——そこには誰もいなかった。
 男はゆっくりとドアを閉じ、踵を返して元いた席まで戻った。スツールに腰を掛けた後も、何一つ発言しなかった。
「その後、俺は刑務所にいれられ、五歳の息子は養護施設に入れられた。それから俺は、ムショを出てからも、一度も息子に会ってはいない。......いや、むしろ会っては行けない気がしたんだ」 
 ブレットは残っていたギムレットを飲み干し、バーテンにおかわりを頼んだ。そのギムレットがグラスに注がれた後に、男は口を開いた。
「貴方の息子の名は——アビエル。“アビエル・マッケンジー”だ。違うか?」
 ブレットはグラスを口へと運ぼうとしていた右手を止めて、大きな目で男を凝視した。
「そして貴方は“ブレット・マッケンジー”だ」
「なぜそれを?」
 ブレットの額には、冷や汗がほとばしっていた。
 男はブレットの方を一切見もせず、話を続ける。
「貴方の事をずっと探していた、アビエル・マッケンジーという男を俺は知っている。貴方がどう思っていたかは知らんがね、彼は貴方に会いたがっ ていたよブレット。貴方が母親を殺した事実も知っていながら、ただ一人の父親を彼は探していた」
 ブレットは思わず立ち上がり、声高に訊ねた。
「奴の、アビエルの居場所を知っているのか!?
あんたは、アビエルの義父か?そうだろ、きっとそうだ。なぁ、奴は今どこに——」
「父さん、まだ分からないのかい?僕が“アビエル・マッケンジー”だよ」
 一瞬、ブレットだけ時が静止した。理解するのに数秒を要した。そして、彼の高らかな笑い声とともに、時がまた動き始めた。
「面白い冗談だ。俺とアビエルは30以上も離れている、もしアビエルがここに来てたとしても、あんたや俺のようなおっさんではないよ。――あぁそうだ。あんた、飲み物がまだじゃないか。なぁ、バーテン。早くこいつにピル・オーティーを注いでやれよ」
 バーテンダーはキョトンとした顔でブレットを眺めた。
「ピル・オーティー?新しい注文ですかい?」
「何言ってんだ。俺のじゃないよ、さっきこいつが......」
 ブレットが横を見ると、“彼の姿”は消え、ドアベルが物憂げに鳴り響いていた。
「まさかそんな、さっきまでやつはここに...」
 ブレットは目を見開いたまま、バーテンを振り向くと、バーテンの姿も跡形もなく消えていた。辺りをよく見渡すと、バーなんてものも、存在していなかった事にも気づいた。無の空間に、一人ポツンと立っていたのだ。
 まさか、と思い視線を落とすと、自分の体もやはり無くなっていたし、それを確認する為の目も、存在していなかった事を知った。
 自分は、アビエル・マッケンジーが産み出した幻影だったのだ。と想うものも何も無かった。