死が狂気を分かつまで

何の変哲もない狂気。
オリバー・ジョーンズがソーセージを食いかじる横で、婚約者であるスーザンは死肉を貪っている。
狂った奇異が日常にある現状に、“カオス”という言葉が脳裏に浮かんだが、何一つ常識的な物がないこの社会では、ある意味、秩序は保たれてると言えるだろう。
しかしオリバーはまだ、その趨勢には慣れていなかった。

「なあスーザン。僕の食事中に、死体を食うのはやめてくれよ。食欲がなくなっちまう。」
彼女は血のついた口元を、右腕で拭った。
「二人でいる貴重な時間よ。貴方がやられたって、私のようになれるとは限らないし。」

たこれだ。僕がプライベートな要求を出せば、何かと二人でいる時間の事を強調し、却下される。オリバーはうんざりしていた。
いっそ、彼女がこんな事にならずに、さっさと死んでくれていた方が幸せだったかもしれない。そうなれば、僕もこの狂った世界の住民になれていただろう。とさえ考えていた。

スーザンはゾンビだった。
比喩的表現ではなく、本当の意味で。
色白で、ほっそりとしていて、大きな目。女性が羨むこの三つの要素が極まるとゾンビになるのだ。

世界にゾンビが蔓延り出したのは、数十年前。
都市部の小さな研究所からゾンビウイルスたるものが漏洩し、驚異的な早さで世界中に広がった。そして今じゃ、生きてる人間など数百人といないだろう。

スーザンも20年前に僕を庇ってゾンビに噛まれた。
僕は悲しみ、悔やんだ。あの時噛まれるべきなのは僕だったと、何度も自分を責め立て、自殺を考えたことすらあった。
しかしスーザンに助けてもらった命だ。無駄には出来ない。人類最後の一人となろうが、生き延びてやろうと、意気込んでいたのだが、つい一ヶ月前に、ゾンビになったスーザンが僕の前にひょっこり現れたのだ。

しかもスーザンゾンビは普通に会話をしてきた。
「この辺で人間見なかった?」が、20年ぶりの再開である最初の一言。お腹がすいてたらしい。

スーザンの話によると、彼女のような知的ゾンビは、どうやら世の中にもチラホラ出てきてるらしい。というより、ゾンビになった者の半々くらいで“知的ゾンビ”と“原始的ゾンビ”に分かれているとか。

知的ゾンビ達の復興作業により、都市部は完全に機能しているという話も聞いた。テレビをつければゾンビ達がニュース番組をやってるし、町に出ても、原始的ゾンビ達は殆ど隔離施設に入れられている為、危険なことは何一つないらしい。

僕は「だったら都市部に住まないか」と提案したのだが、どうやら危険がないというのは、知的ゾンビに限っての話だった。

人間という旧人類は“家畜”という立場に置かれているようで、知的ゾンビに見つかると、専用施設で監禁され、奴等の食料を増やすために延々とsexさせられるとスーザンは語った。
だから僕はスーザンと共に、人里離れた電気も通っていないような廃墟で、ここ十年程生活をしている。

しかし僕は現状を訝っていた。、知的ゾンビという新人類がいる中で、人間として生きていく意味はあるだろうか?
スーザンに噛んでもらい、ゾンビと化した方が幸せではないか?
現にそうしている人間は何人もいるらしい。

だがスーザンはそれを許さなかった。僕が原始的ゾンビになることを杞憂しているのだ。
原始的ゾンビになることが僕にとっての死だと彼女は考えているようだが、それはこのまま生きたとて同じだ。ゾンビであるスーザンは生き続けるが、僕はいずれ死ぬ。
だったら失敗して原始的ゾンビになったって、死期が早まるだけで同じではないか。もし運よく知的ゾンビになれれば、二人は永遠に愛し合う事が出来る。死ですら二人を分かつことはなくなる。

けれども、いくらスーザンに僕がゾンビになる意味を敷衍しても、彼女は納得しなかった。
本気で僕が人間として生きて、死ぬことを望んでいる。
彼女は根本主義者なのだ。
人間である意味など既に滅失してるというのに・・・。

それでなくても、この廃墟という檻の中で、死ぬまで閉じ籠らなきゃならないってだけで僕の気は狂いそうだったのだが、人生という物は転機があるもので、それは忽焉として僕に降りかかった。

いつも通りスーザンは死肉と僕の食料を求めて、都市部へ出向いていた。
そして僕は人っこ一人いない、閑静なゴーストタウンで一人、ぼうっと空を眺めている。
電気の通らないこの町の夜は、空に散らばる星々が唯一の灯火だ。

その灯火の中の一つが、僕に近づいてきた。
風を切る音が聞こえる。光が近づくにつれその音は、より鮮明になった。
ヘリコプターだ。

ヘリコプターを所持してる人間などいる筈がないので、操縦席に座る者を確認する前に、知的ゾンビだと悟った僕は一目散にその場から走り出す。
だがヘリはただの追跡用でしかなかった。
パトカーのサイレンが四方八方から聞こえてくる。

ここで捕まれば、僕は永久的に知的ゾンビ達の家畜だ。パトカーを奪ってでも逃げるしかない。
僕は、完全に包囲される前に、一台のパトカー向かって走り出した。
そしてサイドガラスを叩き割り、中の知的ゾンビを引っ張り出そうとした。・・・のだが、中には“知的ゾンビ”など乗っていなかった。
中には“人間”が乗っていて、僕に銃を突きつけていた。

慌てて僕は相手から銃を奪い取り、車の外へと引きずり下ろし、運転席に乗り込んだ。
どういうわけか、この“人間”達は僕の命を狙っている。
僕はなるべくサイレンが聞こえない方向へ向かって車を走らせた。
途中何度かパトカーにすれ違ったが、Uターンして追って来るまでにかなりの時間があった。
まるで僕がパトカーを奪い逃走することは、想定していなかったかのようだ。
とにかく僕はアクセルを全開まで踏み、向かう先も分からずに道路を突っ走った。
都市部へ向かう道を走っている事は道中の看板で知ったが、まだ後ろから微かにサイレンが聞こえてくるので、引き返す事は不可能だろう。
ついに僕はシティーゲートをくぐった。

だが、そこにも“知的ゾンビ”たるものはいなかった。いく先々に人間がいた。
繁華街に出ると、美味しそうな料理の匂いがしてきて、僕の食欲は掻き立てられた。
今思えばスーザンが持ち帰ってくる食事は腐りかけの物ばかりで、ろくな食事をしていなかったな。
僕は追っ手を巻いたのを確認すると、パトカーから降り、飯屋を目指すことにした。

だが、僕が車から降りるや否や、そこら中から悲鳴が聞こえてきた。人々は一目散に走り出し、喚き、町は一瞬にしてカオスと化した。

「ゾンビだ!」 
虹色のざわめき声の中に混じっていた、その声が僕の耳に入り、僕は全てを察した。
彼らは僕がゾンビだと勘違いしているらしい。

確かに僕は、肌は青白く、痩せこけている。しかしそれはろくな食生活をこの十年間送ってこなかったからであり、僕はちゃんと人間として生きている。

その事を周囲に伝えてやろうと、僕は声高に声を出した。
が、その言語は明らかに人々の使用している言語とは違っていた。
僕がスーザンと会話する時に用いてた言語だった。

慌てて僕は、人間の言語を話そうとしたが、上手く発音できなかった。
どんどん人が遠ざかっていく。点になっていく。
違うんだ。皆、聞いてくれ。こんな筈じゃないんだ。待ってくれ、僕は人間だ。僕の声を聞いてくれ。
発する言葉が全てうめき声と化してるのが自分でも分かった。それを聞くものは遂にいなくなった。風の切る音と、サイレンが聞こえてくる。

きっと、スーザンと十年も暮らしていたせいで、人間の言語の発音方法を忘れてしまったんだ。もう、彼らは僕をゾンビとしか見ていないだろう。

パトカーから出てきた人間の大群が僕を包囲した。
全員が僕に銃を向けている。
僕の言語が、意思が彼らに伝われば、僕がこうなる事は無かっただろうに。

僕はそっと両の手を挙げたが、鳴り響く銃声はそれに目もくれなかった。