唯己論

 ビジネス街にある、一面ガラス張りの小さなバーで、ブレット・マッケンジーはギムレットをあおっていた。外をみやると、間断なく降り続ける霧雨のせいか、はたまた酒のせいか、街の景色は朦朧としている。

 ——ドアベルを鳴らし、一人の男がバーを訪れた。その男はまるで、英国紳士のイメージを具現化したような、気品溢れるオーラを纏っていた。ブレットは彼を一瞥し、軽く値踏みしてみた。
 見た目からして男は50代後半。俺と同じくらいか?スーツは上等な品だ、シワひとつない。恐らく、俺なんかよりも身分のお高い人間なのだろう。
 服装だけでなく歩き方や、スツールに腰を掛ける動作等にも、男の上品さが表れていた。

「マスター、“ピル・オーティー”を頼む」
 ブレットは男の注文をきき、嘲るように笑った。
「“ピル・オーティー”だって?そりゃあんた、ゲイの飲むもんだぜ。カクテル言葉は“アタシを一人にしないで”だ」
 ブレットは泥酔して、顔が真っ赤になっていた。例え自分より品性のある、その男を嫉視していなくても、あるいはその男が品性のない人間だったとしても、今の彼はみだりになじっていただろう。とにかくブレットは荒れていた。
 男は彼の飲むカクテルを一瞥して言う。
「このカクテルには、そんな意味があったんだね。勉強になったよ。まあ、それにしてもまだ“ギムレットには早すぎる”時間帯だと思うけど」
 ブレットは、ニヤリと口角を上げ彼を指差した。だがその指はフラフラで、正確に男を捉えてはいない。
「“チェンドラー”だ。そのくらい、知ってるぞ。れえもんど・ちぇんどらぁーの長い......なんとかって小説だろ。俺を学のない人間だとして、バカにしようってんだろ。え?」
「偏執的だよ」 

 男は灰皿に手を伸ばし、スーツの内ポケットから葉巻箱を取り出した。すると、後ろから指の細くて真っ白な手が、彼の頬を撫でた。
「おじさん。それ、一本くださらない?」
 男が後ろを振り向くと、ぱっと見積もって二十代後半くらいの、ブロンドヘアが若々しく輝く女性が立っていた。
 男が葉巻を手渡すと、女性は男の頬に軽くキスをして、カウンターの奥にある手洗い場まで、真っ直ぐと歩いていった。
「美しい女性だ。二つ前の妻に似ている」と、男はブレットの方を振り向くと、“さっきまで何ともなかった筈”のブレットの頬に切り傷が現れ、血が流れ出ていた。男は驚いて言葉をつぐんだ。 
 ブレットが血を手で拭うと、切り傷は一瞬の内に乾いていき、かさぶたと化した。
「あんた、あの女が見えるのか?」
 さっきまでの、酔っ払いのブレットとはうって変わり、彼は辛辣な表情をしていた。
「あぁ」と男は上ずった声で返答する。
 ブレットは大きく鼻をならし、両手で自分の顔を覆うように撫でた。
「あれは、おれだけの幻影だと思っていた。そうか......実存したんだな」
「どういうことだ?」と男が震えた声で尋ねる。
 まだ目の前で起こった神秘現象を、理解しきれていない様子だった。
「彼女は俺のワイフだ。“元”な」
「元?別れたのか?」
 男が再び訊く。さっきの衝撃的な出来事が強すぎて、二人の歳の差などは気にもならなかった。

 ブレットは、しゃがれた声で話を始めた。目はどこか遠くを見ているようで、その表情はどっと老け込んだかのように、疲れきっていた。
「そうじゃない。いや、別れはしたが、実際に別れられなかった。俺と彼女の間には、五歳の息子がいたんだ。だが俺は定職に就かず、彼女が水商売をする金で生活していた。所謂ヒモだ。」
 男には話が読めなかった。子供がいるのに、働かずにブラブラしていて愛想をつかれて逃げられた、という話なら分かる。だが彼は“別れはしたが、実際に別れられなかった”と答えてる。
 どういうことだ?形式上では別れたが、家に居座ったという話だろうか?それとも、彼はまだ酔っぱらっているのかもしれない。

「ある日、彼女と俺は仕事の事で揉めて、激しい口論になった。——そして彼女はキッチンへ行き、ナイフを手に取った。その時つけられた傷がこれさ」
 ブレットは頬の傷に軽く触れた。男は固唾を呑んで、話に聞き入った。ブレットは鼻で息を吸い込んだ。その間が、男には長い沈黙のように感じた。
「それで、俺は......彼女を押さえつけようとした。だが、ナイフを無造作に振り回す彼女を止めるのは不可能だった。俺は——いつのまにか壁際まで追いやられていた。弾んだ息で俺に詰めよる、彼女のヒステリックな形相は、今思い出しても恐ろしく感じる。
——逃げ場がない。殺られる。俺は一瞬にして死を悟った。ふと、手を伸ばした先に、小さな木製のバットがあることに気づいた。それは五歳になる息子に、野球を教えてやろうと二人で選んだプレゼントだった。俺は......俺はそれを強く握りしめ、彼女の頭目掛け、力の限り振った。小さな木製バットは音を立てて折れ、彼女は俺の前に倒れた。」
「それじゃあ、まさか......」
 男の声はさっきよりも震えていて、半分吃り声のようになっていた。
 ブレットは無言で彼に頷き返す。
「だが、だとすると彼女は——」
「彼女は俺の前でのみ現れる。だから俺は幻影だと思っていた。俺の妄想上の産物だと......」
 男は席を立ち上がり、早足で便所へと向かった。男女兼用であるそのトイレのドアに、鍵はかかっておらず、男は手を震わせながらドアノブを掴んだ。そして、勢いよくドアを開ける。

——そこには誰もいなかった。
 男はゆっくりとドアを閉じ、踵を返して元いた席まで戻った。スツールに腰を掛けた後も、何一つ発言しなかった。
「その後、俺は刑務所にいれられ、五歳の息子は養護施設に入れられた。それから俺は、ムショを出てからも、一度も息子に会ってはいない。......いや、むしろ会っては行けない気がしたんだ」 
 ブレットは残っていたギムレットを飲み干し、バーテンにおかわりを頼んだ。そのギムレットがグラスに注がれた後に、男は口を開いた。
「貴方の息子の名は——アビエル。“アビエル・マッケンジー”だ。違うか?」
 ブレットはグラスを口へと運ぼうとしていた右手を止めて、大きな目で男を凝視した。
「そして貴方は“ブレット・マッケンジー”だ」
「なぜそれを?」
 ブレットの額には、冷や汗がほとばしっていた。
 男はブレットの方を一切見もせず、話を続ける。
「貴方の事をずっと探していた、アビエル・マッケンジーという男を俺は知っている。貴方がどう思っていたかは知らんがね、彼は貴方に会いたがっ ていたよブレット。貴方が母親を殺した事実も知っていながら、ただ一人の父親を彼は探していた」
 ブレットは思わず立ち上がり、声高に訊ねた。
「奴の、アビエルの居場所を知っているのか!?
あんたは、アビエルの義父か?そうだろ、きっとそうだ。なぁ、奴は今どこに——」
「父さん、まだ分からないのかい?僕が“アビエル・マッケンジー”だよ」
 一瞬、ブレットだけ時が静止した。理解するのに数秒を要した。そして、彼の高らかな笑い声とともに、時がまた動き始めた。
「面白い冗談だ。俺とアビエルは30以上も離れている、もしアビエルがここに来てたとしても、あんたや俺のようなおっさんではないよ。――あぁそうだ。あんた、飲み物がまだじゃないか。なぁ、バーテン。早くこいつにピル・オーティーを注いでやれよ」
 バーテンダーはキョトンとした顔でブレットを眺めた。
「ピル・オーティー?新しい注文ですかい?」
「何言ってんだ。俺のじゃないよ、さっきこいつが......」
 ブレットが横を見ると、“彼の姿”は消え、ドアベルが物憂げに鳴り響いていた。
「まさかそんな、さっきまでやつはここに...」
 ブレットは目を見開いたまま、バーテンを振り向くと、バーテンの姿も跡形もなく消えていた。辺りをよく見渡すと、バーなんてものも、存在していなかった事にも気づいた。無の空間に、一人ポツンと立っていたのだ。
 まさか、と思い視線を落とすと、自分の体もやはり無くなっていたし、それを確認する為の目も、存在していなかった事を知った。
 自分は、アビエル・マッケンジーが産み出した幻影だったのだ。と想うものも何も無かった。

【短編】異星人愛者の思し召し

点々と光る恒星達の隙間を埋める無の空間で、一機の小さな宇宙船が、光をも置き去りにして泳いでいた。
前方300光年先にある惑星を、レーダーが感知した事に気づき、名だけの船長であるホン・ポリスはゆっくりと宇宙船のスピードを下げていく。
サイドの窓から見える一次元の閃光は、1光年未満になるころには船内の空間と同調し、やがて0次元と化して瞬いた。

「ついに、ついに見つけたぞ!星だ。同士よ、星を見つけたぞ!」
息を弾ませながら迫ってくるホン・ポリスの声に、ンバリア・ハービンが目を覚ます。
「もう、うるさいよポリス。」
彼女は寝起きが悪い。ベットルームから出てくる第一声は、決まってホン・ポリスへの悪態だ。いつもならポリスは凹むのだが、今回は一層声音に熱を帯びていた。
「うるさいだって?うるさくもなるさ!見ろよンバリア、あの惑星を見ればノルだって声を荒げるぜ。」
ノルというのは、船内の端っこで本を読む男、ノル・ディーアの事であり、つまり私の名称を指している。
「いたって平然じゃない。ポリス、貴方頭おかしい。」
今度の悪罵には流石に傷ついたらしく、言葉をつぐんだポリス。少し哀れに思った私は、彼をフォローしてやることにした。
「まぁポリスの気持ちも分かるよ、あのレーダーに反応したって事は生態系があるって事だ。
もしかしたら我々のような高等生物もいるかもしれないね。」
ポリスは再び顔をあげて、私の肩に腕を回した。
「そうさノル、流石この船のブレインだ! 
ワレワレはあの星の高等生物とコミュニケーションを取る最初の人類となるのさ。」
分かったかンバリアめ、と語尾に付けたしたそうな顔でポリスは彼女を一瞥した。ンバリアの顔は一段と色をなしている。

だが私は、ご満悦なノルの愚挙には反対した。
「いや、それは無理だよ。あの星には着陸できない。」
目を大きく見開くポリス。
「なんで?」
「未知だからだよ。我々はあの星について何も知らない。
酸素濃度は適合してるか?感染症を持ち帰る恐れはないか?そもそも生物は我々に友好的か?
今思い付くリスクだけでも山ほどある。
いいかい、我々がするべき事は開拓ではなく、あの星の存在を研究者達に知らせ、あらゆるリスクを取り除いて貰うことだ。」
「流石この船のブレイン。貴方が船長だったら良かったのに。」
ンバリアはポリスへの嫌みを込めて、ふふんと鼻を鳴らした。だがポリスは食い下がらない。
「違うよノル。こういうのは、一番最初だから意味があるんだぜ。研究者に調べあげられた後の惑星なんて、未知の惑星でもなんでもないよ。そんなもん・・・そんなものは攻略本をみた後にやるRPGみたいなもんさ。中身がわかる状況で開く宝箱に胸が高鳴るかい?」
「リスクの話とは別だ。我々にコンテニューはないんだぞ。」
「ノル、船長は俺だ。俺が決める。」

ポリスは操縦席に座り、船を操作した。
「そんなの勝手すぎるわ。バカポリス、操縦をノルに替わって。」「いやだ。」「ポリス冷静になれ、君のワガママで三人とも危険に晒されるんだぞ。」
私はポリスを操縦席から引きはなそうとしたが、体格のズッシリとしたポリスに、“ブレイン”である私が敵うはずもなかった。

星がドンドン大きく近づく。
「くそったれ!」
私とンバリアはやむを得ず、席に座る。
船はついに大気圏に突入した。
身体に思いっきりGがかかる。船が大きな音をたてて軋む。
次の瞬間、まるで超大型トラックがマッハで衝突してきたかのような爆発音が鼓膜を揺らした。
圧力に耐えきれなくなった船体が、ボロボロと崩れだしたのだ。
このままでは間違いなく不時着する。地上までの距離は凡そ50㎞といった所か。その数値も、死を悟る我々などなおざりにして、ぐんっと小さくなる。
10㎞に差し掛かるか否かの時、まさに間隙を縫って、私は船体用パラシュートの開閉ボタンに手をかけた。
大きく風を切って帆が空を覆う。

速度は幾ばくかは低減したが、まだ速い。開くのが遅すぎたか?
二人の状況に目をくれる余裕もなく、落下方向に視線を向ける。青い。それが“水だ”と認識する前に五感がそれを体現した。
逆行する滝のように水しぶきが上がる。

痛いぞ。水はこんなにも痛かったのか。
低い水温が体全体に染みる。
そして困ったことに私は泳げない。
友人数人に海につれられた時、一人浜辺で待ちぼうけしたのは苦い思い出だ。あぁ、これが走馬灯。

足掻くのもやめ、沈んでいこうとした私の華奢な体を、隆々とした腕が救い上げた。
腕の持ち主はホン・ポリスだ。
我々を窮地に追い込んだ張本人が、皮肉にも私を救ったのだ。

陸に上がると、私は飲み込んだ水を吐き出しながら、フラフラの状態で、力の限りにホン・ポリスを撲りつけた。
「何て愚かだ、私があれほど警告したというのに。
みるんだポリス、この星の重力で宇宙船も破損してしまった。どうやって故郷に帰る?
宇宙船を作っても、大気圏を越える前に、また重力にやられてしまう。
星を出ることすら出来ないぞ。」
私の悪罵に反論する事もなく、ポリスは目を伏せて、じっとしている。
私は鼻を鳴らしつつも、なるべく冷静になるように努めた。ところが不意に聞こえてきた女性の呻き声が、また私の憂慮心を煽る。

「ンバリア!」
彼女の太ももに、宇宙船の部品が刺さっていた。
陸まで泳いでこれたのが奇跡と言えるほど、深く、傷口から流るる深紅の血は海水と混じって、不規則にグラデーションを発生させていた。
ンバリアの蒼白とした顔からは、大量の汗がほとばしっている。
私はやにわに自分の服の布を破り、傷口に止血を施した。これで幾分でもマシになるといいが。
ポリスは私の後ろでじっと彼女を眺め、口をつぐんでいた。手は微かに震えている。

「君をなじる気はないよ。」 
私はポリスと目も合わせずにいう。
現状を打開する為の考えを巡らせる事に必死で、彼の心情を忖度している暇などなかった。
未知の地。あらゆるリスク。そして手合いであるンバリアは、私が思案に暮れている間も衰弱していく。
今一番肝要なのは、慎重かつ迅速に行動する事だろう。さもなくばンバリアが死ぬだけだ。
もしくは我々3人かもしれない。


私はンバリアをポリスに任せて、草木の生い茂るこの星を散策する事にした。
目的は“この星の住民”を探しだし、ンバリアを治療させる事だが、正直、さほど期待はしていなかった。
だいいち、“この星の住民”が高等生物であると限らないし、高等生物だとしても、我々と体の構造が類似していなければ治療など不可能だろう。
もしそうであれば、医療機器を借りて私が治療を施さねばならない。
医者でもない私が、本の知識だけで出来るだろうか?いや、やらねばならないだろう。
最悪、高等生物など発見しなくても・・・どうにかして・・・

見たこともない植物(そもそも植物なのか?)をかぎ分け、私は遂に“道”を見つけた。思わず安堵の息が漏れる。
道があると言うことは通る者がいるということだし、通る者が高等生物である確率は高いはずだ。
この道を辿って歩けば集落が現れるかもしれない。

希望に胸を震わせる私は、更なる希望を発見した。
二足歩行の生物が、道を外れた先にある崖の上に立っていたのだ!
私は「おーい」と声高に叫びながら、その生物に走り寄った。
生物付近に辿り着くと、ゼエハアと息を切らせ、膝に手をつきながら言う。
「近くにいて良かった。我々を助けてほしいんだ。」
しかし私は、発言し終えてから、しまったと思った。
こんな宇宙の外れにある星で、我々が使う“宇宙共通言語”が伝わると思わなかったし、そもそも姿が違う私に怯えるかもしれない。
もっと言えば、我々と同じ二足歩行だからといって、高等生物だとは限らないではないか!
「あなたはだあれ?」
完全に失念してしまった。ほれみろ、生物は私と目も合わさないではないか。・・・ん?
「ねえ、誰だってば。」
「え?あ、あぁ。ノルだ。ノル・ディーア。」上ずった声で答える。
「ふうん。あたしはエマ・グリーンよ。」
なんと、まあ。宇宙共通言語を知っていたか。
その生物は目が小さく、口の位置も高いし、顔が中心に寄っていて、我々とは似ても似つかない姿ではあったが、全く未知の生物、というわけではなさそうだ。言語が通ずるのは大きい。

「ところで何かよう?」
エマの声にハッとする。
「そ、そうだ。この辺に街はないか?
私の仲間が怪我をしていて、治療がしたいんだ。」
端的に述べた。
「そういうことなら、急ぎましょ。あたしが住んでる町が近くにあるよ。30分くらいはかかりそうだけど・・・」
そういい、エマは樹木に立て掛けていた白い棒を手にもち、地面をつきながら歩きだした。
「なんだい、その棒は?」
エマは少し驚いたような顔をして、回答した。
白杖よ。生まれてからずっと、目が見えないの。」
なるほど。私の姿をみて驚かないのも、そういう訳か。
我々の星付近だと、身体障がいは医療技術と社会保障の飛躍により、かなり前に絶滅したが、後進星では未だに、産まれながらにして身体能力の格差があるというのは、本で読んだ事がある。

エマはコツコツと歩きながら、崖の方を振り返った。
「あそこにいくとき、杖を持たずにいくの。
崖があるから近寄るなって、周りの人には何度も聞かされたけど。」
「何故いくんだい?」
私も崖を一瞥してみた。奥には絵で描いたかのような黄昏空が、海を赤く照らしていた。その全てが美しかった。
「あの場所に立つと風が気持ちいいの。
それに、両腕を広げると自由になったみたいよ。」
エマの顔は、正確に崖の方向を向いていた。
目の見えないエマは、何故あそこにたどり着けるのだろう?
恐らく、何万回と連れ添われて、覚えたのだ。
歩数や歩幅、足の裏の感覚や、体内時計。
目の自由な我々には、想像もできないような視覚がエマにはあるのだろう。
もっとも、私には関係のない話だが。

エマを追随し始めて20分が過ぎた頃。
周りの景色は徐々に、道路であるというインフラが整いだし、目の前には、町にある大きな建物が、ハッキリと輪郭をなしていた。
さっきいた場所と比べると、タイムスリップした気分になれるほど、都会的な景色だった。
私が、周りの風景をキョロキョロと見渡していると、前方から二輪車が、がなりたてるようなエンジン音を出しながら近づいてきた。
我々の星では、数世紀前に絶滅した産物のものだった。

二輪車は黒い煙をあげて、我々の前で停止した。
操縦者がフルフェイスのヘルメットを外すと、中から、しわくちゃで、白髪頭の生物がでてきた。
我々の星での概念と同一であれば、恐らく老人だ。
白髪頭はエマの方をじっと見つめた。
エマはエンジン音がうるさくて、居場所が上手くつかめなかったのか、明後日の方向を向いていた。
「エマかい?さては、また崖に行ってたんだね。」 
「ウィリアムおじさん?ううん、今日は海に行ってただけだよ。」エマは私に「ね?」と念を押した。
話を合わせろという合図なのだろう。
「そのお方は?」
ウィリアムおじさんとやらは、私の方に顔を近づけて、じっと凝視した。この星では目が悪いのがデフォルトなのだろうか。
私の姿にピントが合ってきたのか、ウィリアムおじさんの顔色は、ドンドン悪くなっていった。
顔も小刻みに震えている。
「バカな、そんなことはありえない・・・」
ウィリアムおじさんは後退りした。
「あの、訳を話させてください」と私。
「あ、あり得ない。お前のようなものは、存在しないはずだ。存在してはならないのだ。」
完全に怯えた目付きだ。当然の反応と言われればそうなのだが。
「神が・・・、神がお怒りになるぞ!お前は消されるのだ!」
そう言い捨て、踵を返して2輪車で町の方へと、走り去っていった。私は憮然としながらも、エマを向きかえって言う。
「変わった人だね。」
しかし、エマの顔も青ざめていて、さっきの人同様に怯えていた。
「あなた神に何をしたの?」
そう尋ねる声は、明らかに震えていた。
「神って、君は宗教家なのかい?それともこの星全体がかね?」
「星?」
しまった。また失言した。
「なんでもないよ。」と誤魔化す。
私は疲れきっているのだ。
だがエマはその発言には、あまり関心がないのか、言及はしてこない。むしろ気になったのは、前半の発言らしい。
「神は宗教じゃないよ。」
「あぁ、そうか。よし、この話は終わりにして、町へ急ごう。さっきも言ったが、同胞が危機的状況にあるんだ。」
「あたしが連れていかなくても、貴方は神に捕らえられるよ。仲良くなれると思ったのに、残念。」
「何をバカな事を・・・神を信じるのは個人の自由だが、私をその観念に取り込まないでくれ。」 
「そう遠くないよ。」
「君はさっきからなにを」
すると、空から光が降り注ぎ、私の体を宙に持ち上げた。
バカな、本当に神秘現象が私に?
いや違う。上方を見ると、大きな飛行船が浮遊していて、そこから垂れ下がるワイヤーにぶら下がった、迷彩服の生物が、私の細身の体を持ち上げたのだ。

「貴様を神の下まで連行する。」
神の下まで連行。ほう、それは興味深い。
普段であれば願ったりかなったりな状況かもしれないが、今は普段ではない。
私は、ンバリアを治療しなくてはならないのだ。
だから、連れていかれないよう、必死に抗ったが、地上が遠くなるのを見て、諦めた。
こうなったら、神とやらにンバリアを治癒してもらうしかないな。魔法の力とか、なんとかで。
その思考とは逆に、私は既にンバリアの死を悟ってしまっていた。最初から、どうのしようもなかったのだ。

「着いたぞ。」
飛行船で運ばれてから、何時間が経過しただろうか。途中、疲労で睡眠してしまって、正確な時間が掴めない。
飛行船の窓も、カーテンで閉めきられている為、今が朝か夜かすらも分からなかった。恐らく、ここにたどり着くまでの道を悟られない為に、施している事だろう。
飛行船の外に出ると、壁から床まで、鉄のような素材で出来た広い部屋にいて、歩く度に足音が鳴り響いた。
迷彩服の生物が私を乱暴に押しやって、奥の部屋まで連行する。
「ここだ。」
そういって入れられた部屋には、“ホン・ポリス”がいた。私はあまりの驚きに、上ずった声で尋ねた。
「君が神なのかポリス?」
「違うよノル。俺もここに連れてこられたんだ。」
すると、迷彩服の生物が口を挟んできた。
「ここで待て、と言う事だ。」
「なるほど。」

私が部屋の隅に座り込んでから、暫くの沈黙が続いた。ポリスはソワソワと落ち着かない素振りで、何度も鼻を鳴らしていた。
そして、私が沈黙を破った。
「ンバリアはどうなった?」
「分からない」とポリス。彼はさらに言葉続けた。
「あの後、この星の人間に会って、都心へ案内して貰うことになったんだ。」
「なに?その間ンバリアは?」
「海の近くで寝かしつけていた。」
私は大きくため息をついて、ポリスを咎め立てるように言った。
「君は本当にどうしようもないバカだな。もし近辺に肉食の生物がいたらどうする?もしくは不意の事故で彼女が怪我をしたら?容態が急変したら?
私はそのリスクを軽減する為に、君にンバリアを任せたのだよ。少しは頭を使って行動したらどうかね。」
我慢の限界がきていた。もうこの愚鈍者にはうんざりだ。こいつが成すこと全てが、マイナスに作用している。
「俺だって!」
ポリスは声高に叫んだ。
その声には、憤怒や秘めたる感情の爆発とやらが、お互いに強い色と成してかち合い、入り交じっていた。
「俺だって、役に立ちたかったんだ。こんな事態を引き起こしてしまった埋め合わせがしたかった。」
「結果が着いてこなきゃ無駄なのだよ。」
私は辛辣に述べた。それから二人は、一切言葉を発しなかった。次に迷彩服の生物が現れるまでの時間が、ひどく長く感じた。

「この部屋だ。」
「ここは?」
迷彩服の男に連れられ、やってきた場所は、さっきの殺風景な部屋と比べると、えらく清潔で、なおかつ豪奢だった。
「客室だ。ここにはいる前に、左手にある殺菌室で浄化して、我々の用意した服に着替えろ。」
神に会うには相応しい格好をしろ。ということか。
複を着替えさせるのは、武器を隠し持たせない為でもあるのだろう。
私たちは命令に従い、殺菌室で身体を洗い残しなく洗浄され、服を真っ白で余計な装飾のない、全身タイツのようなものに着替えた。
部屋に入ると、フカフカそうな深赤色のカウチと、ローズウッドのように艶やかで、クラシック調のテーブルの上に、見たこともない果物が、皿に彩飾されているのが目についた。だが、純白の服に着替えた先程の迷彩服生物は、我々をくつろがせることなく奥の扉に案内した。
この先に神がいるらしい。

扉を開くと、そこには真っ白な空間の真ん中に、円筒状のコンピューターが大木のように、そびえ立っていた。
迷彩服生物は部屋に入るや否や、ひざまづいて、敬意を示した。白い服が部屋と同調して、首から上だけになったみたいに見えた。
ポリスはコンピューターに指を指して、迷彩服生物に訊ねた。
「これが神だってのか?」
「貴様、無礼だぞ。」
すると、円筒状のコンピューターは様々な色の光を明滅させながら、声を出した。
非常に機械的な声で、部屋中にそれがこだました。
『下がれ。マルクス。』
迷彩服の生物の名はマルクスというらしい。
マルクスは声も出さずに、深くお辞儀をし、部屋を後にした。

そして、神であるコンピューターが話を始めた。
『お前たちは、他の星の者だな?』
「そうだ」と私。
『お前たちはこの星に存在してはならない。
この星は私が統制している。私の統制下にない者は滅失しなければならない。』
「我々は貴方に逆らう気はない。ただ、この星に不時着した際に、宇宙船を失い、仲間が一人負傷してしまったんだ。
医療機器と宇宙船を貸して欲しい。そしたらすぐにでもこの星を出ていくよ。」
端的にこちらの要求を述べた。
『それは不可能だ。』
「何故だ。」
『宇宙船を貸すということは、この星民がお前たちに関与しなければならない。この星で生活する以上、外部の者との接触は許されないのだ。』
話が見えなかった。
「接触が許されない?何故だ?」
とおうむ返しに質問した。それ以上に疑問はあるが一つずつ潰していく必要があるだろう。
『統制下にないからだ。外部が関与すると統制が崩れる。もう深く関わってしまった、マルクス、エマ、ウィリアムは削除しなければならない。』
「なんだと!彼女たちは関係ないだろう!」
今まで黙っていたポリスが、半歩前に出て怒号をあげた。
しかし、その発言にいち早く反応したのは私だった。
「彼女たち?君もエマを知っているのかポリス?」
「・・・あぁ、さっき言ってた“都心へ案内してくれたこの星の人間”ってのがエマ・グリーンさ。」
「それはいつだ?」
「お前が散策を始めてからすぐだよ。」
「ばかな、そんなことはあり得ない。
私がエマ・グリーンと会ったのも、散策を開始してから数分と経っていない。
“エマ・グリーンが二人存在していた”とでもいうのか?」
私の声は震えていた。ポリスも顔が、着ている服のように真っ白になっていく。
なにか、奇妙なことが起こっている。いや、既に起こった後なのだ。

『エマ・グリーンは統制下にあるからだ。』
とコンピューターは述べた。
「どういう意味だよ。」
ポリスがおずおずとした声で尋ねる。
コンピューターは抑揚のない声で話を続けた。
『この星の人工は、約一億人いるが、人間のパターンはその数値を下回っている。』
「は?」とポリス。
「遺伝子構造が被ってる奴がいる、という事だろう。」
私はコンピューターの発言を咀嚼して、ポリスに分かるように言葉を付け加えたが、それでも彼は理解していない様子だった。私はそれにもイライラしていた。
『遺伝子構造か。お前たちの言葉に変換すると、そのようになるかもしれない。しかし、実際は違う。
プログラミングを新たに作るコストを削減する為、コピー・ペーストした人間が存在するというのが正解だ。』
「なに?それじゃあまるで、この星の人間は・・・」
『その通りだ。Mr.ノル・ディーア。
この星の人間は、私によって創造され、統制されている。だから私は神なのだ。
形而上の意味ではない。私は実存する神として、この星を統制している。』
「何をいってるんだこいつは?」ポリスは額に汗を湿らせ、コンピューターを睨み付けていた。
私の声は一層に震えて、殆どしゃがれ声のようになっていた。
「分からないのかポリス?
この星の人間は全て、このコンピューターによって制御されている“プログラム”ということだよ。」
「なっ・・・」

『ご名答だ、Mr.ディーア。私は崇拝されているから神なのではなく、神だから崇拝されている。
その忠誠心は絶対的かつ、揺るぎようのないデータなのだ。』
だから、プログラム外である我々は悪玉菌として排除されるという訳だ。
マルクス、エマ、ウィリアムを削除するというのは、存在を消すという意味ではなく、記録を0にするという事だろう。
だが我々の削除は違う。国民国家を総動員して我々の存在を消すという事だ。我々には戦う武器も、逃げるための船もない。
こいつらにとって、死こそが我々に組み込まれたプログラムという訳なのだ!

「たが分からないな神よ。星の統制が目的であるなら、エマ・グリーンのような視覚障がい者は、コストを下げる要因にしかならないはずだ。
あれはなんだい?君にとってのバグなのか?」
それは、私の個人無意識より生まれる、知的好奇心から発生した質問だった。そして、打開策を考えだすための時間稼ぎでもある。
『いい質問だMr.ディーア。
人間というのは自分より劣っている民族を見て、自分が幸せであると気づき、それにより創造者に感謝をする。
エマ・グリーンはその為の潤滑油という訳だ。』
なるほど。その為に支払うコストという事か。
彼にとって対した過誤でないって訳だ。
「潤滑油だと?自分の星の人間を、潤滑油扱いしてるのか?ふざけるな、お前は最低な君主だ!」
ポリスは憤然としていた。
「ポリス、彼らは神によるプログラムだ。
チェスの駒に感情移入してるような物だぞ。」
「こんな狂った独裁者に肩入れするのかノル!?」
「私は是々非々で物を言ってるだけだよ。」
『Mr.ディーア、君は聡明だ。私が書いた、いかなるプログラムよりも優れている。
私の下で働く事を勧めよう。』
「それもいいかもしれないな。どうせ、この星からは出れそうにない。」
それを聞いて、ポリスは私の胸ぐらを掴んだ。
「おい、ノル。冗談でも言って良いことと、悪いことがあるぞ。」
「この状況を引き起こした君がいうかね?」
暴力では勝ち目がないが、口論では引かなかった。
それに、絶対的にこの愚鈍者よりも、自分の方が正しいという自信もある。
ポリスは少し言葉をつまらせてから言う。
「ンバリアは?彼女は見殺しにするのか!?」
「彼女は既に助からないよ。もう死んでるかもしれない。」
ポリスは私を、ノル・ディーアを強く殴り付けた。
ノルは赤くなった頬を押さえながら、ポリスと反目し合う。

「お前は狂った神の、更に狂った“狂信者”に成り下がっちまったって訳だ。」
ポリスは真っ白な空間に、浮いたように存在する扉に手をかけた。
『何処にいくつもりだ?ホン・ポリス。』
「帰るのさ、自分の星に。」
ノルはポリスの愚挙を鼻で笑った。
「君が宇宙船でも作るのか?町の外にある樹木でかい?」
「笑ってろ」
そう言い捨て、ポリスは部屋を後にした。

ちきしょう。ふざけやがって。ノルはもうダメだ。完全に考え方がおかしくなっちまってる。
奴に洗脳されてしまったんだ。
身体的にも、精神的にも、まともなのは俺だけだ。
俺が何とかしなくちゃならない。結局は俺が船長なんだ。
だけど、どうしよう?
俺は今、何処にいるのかすらも分からない。
それに、ノルとあの忌まわしきコンピューターの話によると、この星の人に見つかったら殺されてしまうらしいじゃないか。
くそう。こういう時、自分の無策さに腹が立つ。
いつだって、ノルやンバリアに対して、自分が劣ってるような考えに、させられちまうんだ。

コンピューターが住まうこの建物を出ると、夜の暗がりの下に、荒涼とした砂漠が広がっていた。
ちきしょう。ちきしょう!!くそったれめが!!
俺には乗り物すらないじゃないか!!!
俺は地面を強く叩いた。手には小石がめり込み、砂ぼこりが舞った。
何一つ上手くいかない現状が、酷く腹立たしかった。自分の無力さが悔しくて、涙が出そうだった。

途方に暮れつつも、前に進んだ。
行き先が、今向いてる方向が正しいのかすらも分からないが、とにかく歩を運んだ。
はは。まんま、俺の生き方みたいだな。
俺が道を間違えたとき、いつもはノルやンバリアが是正してくれた。悪態をつきながらも、俺を正しい道へと導いてくれていたんだ。
だが俺は今日、あいつらを無視して、自分の欲望につっ走り、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまった。なさけねえ。目からは涙が溢れてきた。
俺は男だ。泣くなんて、みっともない。
押さえようとすると、どっと溢れてくる。
俺は涙すらもコントロールできない。大間抜けだ。

「何で泣いてるの?」
ハッと俺は目を見開いて、前を向いた。
そこにはエマ・グリーンがいた。
なんだこれは、幻覚か?忽然と彼女が現れたんだ。
こんなのってあり得るか?
「ねえってば」
「お前、どこからきた?」
エマ・グリーンはむすっとしながら答えた。
「質問に質問で返さないでよ。」
なんとなくその反応が、ンバリアに似てる気がした。
「あたし、この辺に住んでるのよ。この辺と言っても結構歩くけど。ねえ、何で泣いてるのよ。」
この辺に住んでるってことは、近くに町があるってことだ。少し希望が見えて来た気がした。
「泣いてないさ。というか、目が見えないから分からないだろ?」
「すすり泣きする声が聞こえてたんだもん。女の子みたいにね。」
思わずはにかんだが、それはエマには気づかれてないだろう。
「さっきの海辺に連れてってくれよ。友人が待ってるんだ。」
「いいけど、さっき海辺であなたと会ったエマ・グリーンは、あたしじゃない方よ。記憶は同期してるけど、全然違うんだから。」
エマは明らかに機嫌を損ねていた。
これがプログラム?ふざけてる。彼女のこの膨れっ面も、神が作り出したというのか?
「さっきからなにブツブツいってるの?」
「なんでもないさ。」
俺は地面に落ちていた石ころを蹴りあげた。
空を見ると、似たような恒星達が煌めいている。
半日前くらいには、あの中を宇宙船で泳いでいたという事実が、かなり遠くに行ってしまった気がした。

『Mr.ディーア、私の勝ちだ。』
チェスのルールを教えてから、僅か20局で神は私を越えた。素晴らしい学習能力である。
「面白い。恐らく私が今後、本気でチェスを学んだとしても、君には勝てないだろう。次はチェッカーでも学ぶかい?」
『いや、もういい。そろそろ星民達のプログラムが、ホン・ポリスを捕らえるものに書き変わる頃だ。』
「そうか。」
私は真っ白な空間に、持ってこさせた赤いカウチに寝そべった。横ではマルクスが、大きな葉っぱ状の団扇で私を扇いでいる。
マルクス、チェス盤をさげてくれ。」
マルクスは忌々しそうな目で私を睨み付けながら、命令に従った。彼が崇拝してるのは私ではないと、ハッキリと態度に現れている。
「ポリスを拘束した後、どうするんだい?」
憂慮してるわけではなく、素朴な疑問だった。
『勿論、削除するつもりだ。そうだ、その処刑人をお前にやらせよう。お前がどれだけ感情のない人間なのか、単純に興味がある。』
「悪趣味だね。」と言って、私はニヤリと笑った。
感情のない人間か、そんな風に言われることは今までに多々あったが、コンピューターに言われたのは初めてだ。しかし私は怒ったり、今みたく笑ったりする。つまりは0ではないのに、無いと表現されるのだ。
万能の神であるコンピューターが、そんな矛盾を言うのが、余計に面白く感じた。
マルクス、やはりチェス盤を戻してくれ。」
ふと、私は本当にこのコンピューターを越えられないのか、試してみたくなった。

「そういえば、貴方たち、なんで神に連れていかれたの?」
エマ・グリーンは数歩前で俺を先導している。
俺は体力に自信があったが、彼女は疲れというものを、全く知らないようすだった。
汗だくで、息を切らせながら歩く俺に構いもせずに、ふつうに話しかけてくる。
ひょっとすると、俺がバテてるという事も分かってないんじゃないか。
「宇宙人だからだよ。俺が。」
「もー、真剣に答えてよ。」
彼女は信じなかったし、それを証明する手だては俺にはない。
「本当さ。そうだ、宇宙船が修理できたら、お前を連れてってやるよ。
そしたら俺の星の技術で、目を治療出来るから、自分の目で確かめてみるといいさ。」
「いいね、それ。」
エマは微笑んだ。そういえば、笑うところは、はじめてみるかも知れないな。いい笑顔だと思った。
「もうすぐつくよ。」
「え?もう?」
歩き始めてから一時間と経っていない。
海辺からあの建物まで連行された時には、けっこうな時間が経過していたとおもうけど・・・
まぁ、いいや。
とにかく俺は、ンバリアが生きていることを祈ろう。ついでに船も直ってたらいいのに。
「まって、ポリス。」
彼女は急に立ち止まった。思わずぶつかりそうになった。
「なんだ?」
「貴方はここを動いちゃいけない。」
「なんでだよ、エマ、早くしないとンバリアが危ないんだ。」
俺は、エマを横切って先に進もうとしたが、エマは俺の腕を強くつかんで、動こうとしなかった。
「なんのつもりだ。」
「ダメ、ダメなの。貴方を進ませたくない。きっと、神にプログラムを書き換えられたのよ。」
「よしてくれ」
俺は無視していこうとしたが、彼女は俺の体に腕を回して引き止めてきた。
「おい!」
思わず力を込めて、振り払ってしまった。
彼女が地面に倒れて尻餅をつく。
「あ、ごめん・・・」
彼女は、間断もなく立ち上がり、なおも俺の体を拘束しようとした。
「ダメよ、プログラムには逆らえない。
きっと、もうすぐ神の追っ手が貴方の下に現れるわ。」
「俺はどうすればいい。」
「あたしから、逃げて。」
そう言いつつも、彼女は泣いていた。
それは、感情から溢れだした、声なき嘆きだった。
俺は、くしゃくしゃの顔で、俺にしがみつく彼女を抱き上げた。
「え?」と彼女は驚きの喘ぎを漏らした。
俺は、海辺に向かって余力を振り絞り、走り出す。
「目を直してやるっていったろ。そこで、その糞みたいなプログラムも書き換えてやる。
お前は一人の女の子として生きていいんだよエマ。」
彼女はなにも言わず、顔をうずくめて泣いていた。
ぎゅっと、強く俺の体を抱き締める腕は、俺を捕らえようとしているのか、もしくは愛から来るものなのか、俺にはどうでもよかった。
彼女の暖かさが、真実だと思った。

『海辺に星民を総動員させた、ホン・ポリスが捕まるのも時間の問題だよMr.ディーア。』
「そうらしいな。」
私はチェス盤をしまい、大きく伸びをした。
コンピューターは、相変わらず感情のこもってない声で、話を続ける。
マルクスに乗り物を準備させた、お前も現地に向かうといい。そこを処刑場にしよう。』
「君は立ち会えなくていいのかい?」
「立ち会うさ。」
後ろから声がしたので振り向くと、マルクスが無表情で立っていた。
姿勢や仕草にも、どこか、感情がなかった。
マルクスには私のデータを受信する機能が備わっている。つまり、憑依出来る。だから側近なのだ。』
「なるほどね。」
私はあまり驚かずに答えた。
あくまで想定の範囲内、という素振りをした。
「さあ、いこうか。」と抑揚のない声で、神であるマルクスが私に呼び掛ける。そして、彼は私に拳銃を差し出した。
「弾は一発だ。君の知能なら、分かるだろう?」
私は有無も言わずに、銃を受け取った。
それを使い、その場でコンピューターを破壊する事も出来たが、そのまま彼に同行した。

私をここまで運んできた飛行船がある部屋の隣に、二人乗りのホバーバイクが、並べて停めてある倉庫があった。
「飛行船以外は、タイヤのある乗り物しかないと思ってたよ。」
「ホバーは電力が嵩む。だから、私の側近にしか使わせないようにしている。」
コンピューターの神にとっての電力は命だ。
なるべく倹約している理由は、容易に理解できた。
「Mr.ディーア。後ろに乗るか?それとも自分で運転するか?」
「あいにく免許をもってないんでね、乗せてもらう事にするよ。」
ジョークのつもりでいったが、コンピューターは笑わなかった。
ホバーバイクの後ろに股がると、バイクは音もなく宙に浮き始めた。そして、目の前の壁が左右にスライドして開き、途方もなく広い、寂寥とした砂漠が、眼前に見えた。バックサイドのホバーが音を立てながら火をふき、バイクが物凄い勢いで驀進する。
外に出ると、暁天の空が、仄かに私たちを照らした。もう、朝になるのか。それ以上に感じたことはなにもなかった。

ポリスは海辺に、最初に不時着した、その場所へと帰着してから、ンバリアがいなくなってることを確認した。
ンバリアを寝かしつけていた場所から、海の方まで、血痕が伸びている事に気づく。
恐らく、自殺したのだろう。俺たちが戻らないことを悟り、余力を奮い、地を這って、波に身を預けたんだろう。
自身の苦しみから逃れる為?それとも、俺たちに迷惑をかけないようにとでも?
ンバリアの最後の決断が、合理的なものか、感情的なものなのか、ポリスには想像する事しかできない。
冷たい風が静かに吹き、ポリスは少し身震いをした。耳をすますと、波の音が物憂げに聞こえてくる。
現在、かろうじて俺の自我を繋ぎ止めているのは、エマ・グリーンだろう。そして、そいつももうすぐ失ってしまうかもしれない。とポリスは思った。
俺は今、“完全に包囲されている”のだから。と。

海を取り囲む木々の影から、星民達がゾロゾロと現れた。その中には、ノル・ディーアもいた。
彼はポリスに銃を突きつけた。
「まだ、何とかなるとでも思ってるのかい?」
ポリスは、諦めの笑みとも取れるような表情で、答える。
「“俺たち”は最低なクズ野郎だな、ノル。」
ノルは銃口を正確にポリスの頭部に向けながら、彼に歩み寄った。慎重に、半歩ずつ。
「私と君は違うよ、ポリス。私は順応したんだ。だから、この星民の群れの中にいる。そして、その群れに紛れることの出来なかった君は、死ぬことになった。」
ポリスは一層強く、エマを抱き締めた。
高鳴る心臓音が、どちらのものか分からなくなるくらい、体を密着させた。
「殺れよノル。ノル・ディーア!お前が得られる物は、なにもないがな。」
ノルは、笑った。その笑みは微笑から始まり、次第に高らかな大笑へと変貌していった。
ヒステリックな噴飯だった。
「確かにそうだろう、君を殺しても私の手持ちはプラマイ0だ。だが、あそこに立っているマルクス
あれには神が憑依している。
私は彼に銃身を移動させ、撃ち殺すことも可能だ。
しかし、彼を殺したところで、大元のコンピューターは破壊されない。
そうすると、コンピューターは星民全員を使い、私を殺しに来るだろう。そうなれば、私は私を失うことになる!
分かるかポリス?分かるだろう?」
そして、ノルは銃を下ろした。息を弾ませ、口角は上がったまま、マルクスの方を一瞥した。
「さきほどね、私はあのコンピューターに、勝てるか否か、試したくなったんだよ。しかし、奴は私と同じ、利己的かつ合理主義者だ。なおかつ処理能力は私の何千倍もある。
奴は完全に私の上位互換だと、挑戦してみて気がついたんだよ。分かるか?分かれよ。分かるだろう?
やつが、奴こそが神に相応しかったんだ。
だが、ポリス。君は私とも、奴とも違う。
君は感情論者だ。ロジックを無視して突き進む、大馬鹿野郎だ。愚鈍者だ。」
ノルは銃口を自分の頭部に向けた。 
ポリスはノルのしようとしていることを理解し、止めようと、彼のもとに走りよった。
「私は今でも、お前のような感情的な奴が大嫌いだよ、ポリス。」
銃声は鳴り響き、辺りには血煙が舞った。
ポリスは絶叫した。まるで、咆哮のように、その叫びは言葉と成してなかった。

ノル・ディーアは死んだ。

 

「分からないな、Mr.ディーアのような賢人が、何故このような非合理的な行動に走る?」
マルクスの形をした神は、ノルの死体に近づき、足で小突いた。
「くそったれ!!!!」
ポリスは、その場で神をぶん殴ってやりたがったが、エマを抱き抱えたまま、走り出した。ノル・ディーアの意図は、彼には理解できなかったが、生き延びねばならないと思った。
星民たちは、彼を追走しようとしたが、神がそれを止めた。
「奴はいいよ。後でエマ・グリーンのプログラムを、ホン・ポリスの抹殺に書き換えておく。
お前たちは普段の生活に戻るといい。」
神の言葉に髄順して、星民たちは足並みを揃え、町へと引き返していった。

マルクスはふと、ディーアの死体の脇に咲いてあった一輪の花を引き抜き、彼の手に握らせてみた。
なんの意味も持たない行動だった。

死が狂気を分かつまで

何の変哲もない狂気。
オリバー・ジョーンズがソーセージを食いかじる横で、婚約者であるスーザンは死肉を貪っている。
狂った奇異が日常にある現状に、“カオス”という言葉が脳裏に浮かんだが、何一つ常識的な物がないこの社会では、ある意味、秩序は保たれてると言えるだろう。
しかしオリバーはまだ、その趨勢には慣れていなかった。

「なあスーザン。僕の食事中に、死体を食うのはやめてくれよ。食欲がなくなっちまう。」
彼女は血のついた口元を、右腕で拭った。
「二人でいる貴重な時間よ。貴方がやられたって、私のようになれるとは限らないし。」

たこれだ。僕がプライベートな要求を出せば、何かと二人でいる時間の事を強調し、却下される。オリバーはうんざりしていた。
いっそ、彼女がこんな事にならずに、さっさと死んでくれていた方が幸せだったかもしれない。そうなれば、僕もこの狂った世界の住民になれていただろう。とさえ考えていた。

スーザンはゾンビだった。
比喩的表現ではなく、本当の意味で。
色白で、ほっそりとしていて、大きな目。女性が羨むこの三つの要素が極まるとゾンビになるのだ。

世界にゾンビが蔓延り出したのは、数十年前。
都市部の小さな研究所からゾンビウイルスたるものが漏洩し、驚異的な早さで世界中に広がった。そして今じゃ、生きてる人間など数百人といないだろう。

スーザンも20年前に僕を庇ってゾンビに噛まれた。
僕は悲しみ、悔やんだ。あの時噛まれるべきなのは僕だったと、何度も自分を責め立て、自殺を考えたことすらあった。
しかしスーザンに助けてもらった命だ。無駄には出来ない。人類最後の一人となろうが、生き延びてやろうと、意気込んでいたのだが、つい一ヶ月前に、ゾンビになったスーザンが僕の前にひょっこり現れたのだ。

しかもスーザンゾンビは普通に会話をしてきた。
「この辺で人間見なかった?」が、20年ぶりの再開である最初の一言。お腹がすいてたらしい。

スーザンの話によると、彼女のような知的ゾンビは、どうやら世の中にもチラホラ出てきてるらしい。というより、ゾンビになった者の半々くらいで“知的ゾンビ”と“原始的ゾンビ”に分かれているとか。

知的ゾンビ達の復興作業により、都市部は完全に機能しているという話も聞いた。テレビをつければゾンビ達がニュース番組をやってるし、町に出ても、原始的ゾンビ達は殆ど隔離施設に入れられている為、危険なことは何一つないらしい。

僕は「だったら都市部に住まないか」と提案したのだが、どうやら危険がないというのは、知的ゾンビに限っての話だった。

人間という旧人類は“家畜”という立場に置かれているようで、知的ゾンビに見つかると、専用施設で監禁され、奴等の食料を増やすために延々とsexさせられるとスーザンは語った。
だから僕はスーザンと共に、人里離れた電気も通っていないような廃墟で、ここ十年程生活をしている。

しかし僕は現状を訝っていた。、知的ゾンビという新人類がいる中で、人間として生きていく意味はあるだろうか?
スーザンに噛んでもらい、ゾンビと化した方が幸せではないか?
現にそうしている人間は何人もいるらしい。

だがスーザンはそれを許さなかった。僕が原始的ゾンビになることを杞憂しているのだ。
原始的ゾンビになることが僕にとっての死だと彼女は考えているようだが、それはこのまま生きたとて同じだ。ゾンビであるスーザンは生き続けるが、僕はいずれ死ぬ。
だったら失敗して原始的ゾンビになったって、死期が早まるだけで同じではないか。もし運よく知的ゾンビになれれば、二人は永遠に愛し合う事が出来る。死ですら二人を分かつことはなくなる。

けれども、いくらスーザンに僕がゾンビになる意味を敷衍しても、彼女は納得しなかった。
本気で僕が人間として生きて、死ぬことを望んでいる。
彼女は根本主義者なのだ。
人間である意味など既に滅失してるというのに・・・。

それでなくても、この廃墟という檻の中で、死ぬまで閉じ籠らなきゃならないってだけで僕の気は狂いそうだったのだが、人生という物は転機があるもので、それは忽焉として僕に降りかかった。

いつも通りスーザンは死肉と僕の食料を求めて、都市部へ出向いていた。
そして僕は人っこ一人いない、閑静なゴーストタウンで一人、ぼうっと空を眺めている。
電気の通らないこの町の夜は、空に散らばる星々が唯一の灯火だ。

その灯火の中の一つが、僕に近づいてきた。
風を切る音が聞こえる。光が近づくにつれその音は、より鮮明になった。
ヘリコプターだ。

ヘリコプターを所持してる人間などいる筈がないので、操縦席に座る者を確認する前に、知的ゾンビだと悟った僕は一目散にその場から走り出す。
だがヘリはただの追跡用でしかなかった。
パトカーのサイレンが四方八方から聞こえてくる。

ここで捕まれば、僕は永久的に知的ゾンビ達の家畜だ。パトカーを奪ってでも逃げるしかない。
僕は、完全に包囲される前に、一台のパトカー向かって走り出した。
そしてサイドガラスを叩き割り、中の知的ゾンビを引っ張り出そうとした。・・・のだが、中には“知的ゾンビ”など乗っていなかった。
中には“人間”が乗っていて、僕に銃を突きつけていた。

慌てて僕は相手から銃を奪い取り、車の外へと引きずり下ろし、運転席に乗り込んだ。
どういうわけか、この“人間”達は僕の命を狙っている。
僕はなるべくサイレンが聞こえない方向へ向かって車を走らせた。
途中何度かパトカーにすれ違ったが、Uターンして追って来るまでにかなりの時間があった。
まるで僕がパトカーを奪い逃走することは、想定していなかったかのようだ。
とにかく僕はアクセルを全開まで踏み、向かう先も分からずに道路を突っ走った。
都市部へ向かう道を走っている事は道中の看板で知ったが、まだ後ろから微かにサイレンが聞こえてくるので、引き返す事は不可能だろう。
ついに僕はシティーゲートをくぐった。

だが、そこにも“知的ゾンビ”たるものはいなかった。いく先々に人間がいた。
繁華街に出ると、美味しそうな料理の匂いがしてきて、僕の食欲は掻き立てられた。
今思えばスーザンが持ち帰ってくる食事は腐りかけの物ばかりで、ろくな食事をしていなかったな。
僕は追っ手を巻いたのを確認すると、パトカーから降り、飯屋を目指すことにした。

だが、僕が車から降りるや否や、そこら中から悲鳴が聞こえてきた。人々は一目散に走り出し、喚き、町は一瞬にしてカオスと化した。

「ゾンビだ!」 
虹色のざわめき声の中に混じっていた、その声が僕の耳に入り、僕は全てを察した。
彼らは僕がゾンビだと勘違いしているらしい。

確かに僕は、肌は青白く、痩せこけている。しかしそれはろくな食生活をこの十年間送ってこなかったからであり、僕はちゃんと人間として生きている。

その事を周囲に伝えてやろうと、僕は声高に声を出した。
が、その言語は明らかに人々の使用している言語とは違っていた。
僕がスーザンと会話する時に用いてた言語だった。

慌てて僕は、人間の言語を話そうとしたが、上手く発音できなかった。
どんどん人が遠ざかっていく。点になっていく。
違うんだ。皆、聞いてくれ。こんな筈じゃないんだ。待ってくれ、僕は人間だ。僕の声を聞いてくれ。
発する言葉が全てうめき声と化してるのが自分でも分かった。それを聞くものは遂にいなくなった。風の切る音と、サイレンが聞こえてくる。

きっと、スーザンと十年も暮らしていたせいで、人間の言語の発音方法を忘れてしまったんだ。もう、彼らは僕をゾンビとしか見ていないだろう。

パトカーから出てきた人間の大群が僕を包囲した。
全員が僕に銃を向けている。
僕の言語が、意思が彼らに伝われば、僕がこうなる事は無かっただろうに。

僕はそっと両の手を挙げたが、鳴り響く銃声はそれに目もくれなかった。

ドリーム・シェアリング

“ドリーム・シェアリング”の看板の下に、5坪程の小さな店が佇んでいた。
夢の共有──なんとも胡散臭い商売だ。
最近SNSで噂に挙がっていたので、(もしかすると僕の悩みを取り除いてくれるかもしれない)と僅かな希望を胸に訪れてはみたが、店主が蝶ネクタイに紫のスーツと来たもんだから眉唾物だ。

「ようこそドリーム・シェアリングへ。どのような夢をお探しでしょう?」
紫の男は満面の笑みで、ファイリングされた資料を幾つか取り出した。
「どんな夢でもいいよ。」
僕はその資料の束には目もくれず、紫の男の元へ押し戻した。紫男は手際よく資料をしまう。
「なるほど。“見たい夢がある”のではなく“他人の夢を体感したい”ので、当店にお越しになられたのですね?」
「いや、そういう訳ではないのだがね。」
「というと?」
「僕は予知夢を見るんだ。」 
紫男は目をパチクリさせた。
予知夢というワードに驚いたのか、僕の返答が“当店にお越しになられた理由”の答えになっていないからかは分からない。
そこで僕は言葉をついだ。

「というのもただの予知夢じゃない。起きてから寝るまでの、一日の出来事を全て再現してしまっているんだ。分かるかい?僕は夢で起こった出来事を、現実でもう一度体験しなくてはならない。」
「つまり、二度同じ一日を送るのが嫌なので、ドリーム・シェアリングで他人の夢に書き換えたい、と言う用件ですね?」
「そうだ。」
「ふぅむ...。」
紫男は顎に手を置き、考え込むような仕草をした後に言葉を続ける。 
「お言葉ですが、予知夢通りに行動しなければ、二度同じ生活を送る必要性は無くなるのでは?」
「そこなんだよ。僕にとって予知夢はデジャヴなんだ。」
「デジャヴ?」
紫男は再び困った顔を見せる。
「つまり、起きた時には覚えてないんだよ。予知夢の内容を。でも行動すると“この場面は夢で見たな”と認識する。いつも取らないような行動をしてもやはり既視感が襲ってくる。
まるで、予め出来事が決められてるような気分だ。」
紫男は「哲学本が書けそうですね。」と笑ったが、僕が終始辛辣な表情なのを確認すると、決まりが悪そうに咳払いをした。

「とにかくどんな夢でもいいんだ。予知夢さえ消えればそれでいい。」
「分かりました。それではストレス解消の念も込めて、可愛らしい猫ちゃんの夢を上書きしときますね。」
紫男は今度は気色を伺ったらしく、真顔の僕を見て、頭を下げた。
「冗談はお嫌いなようで。」
「“二度目”だからだよ。」

理由を納得した紫男は、さっさと施術に移ることにしたらしく、その後の会話は業務的なものだった。

夜になると、期待と不安から中々寝付けずに、僕は酒をあおっていた。 
不安というのは、施術が失敗したんじゃないかという不安だけではなく、予知夢を見なくなった後、現実をダイレクトに受け止めなければならなくなるという不安だ。
今になって施術を後ろめたい気持ちが垣間見ていた。

次第に眠気が僕に覆い被さり、意識を脳みそから吸出していった。
また夢が近付いてくる......。


アラーム。太陽光。朝。そして、見慣れた天井。

これが他人の夢の中?
それとも既に目覚めた現実?

どちらにせよ僕が、洗面台の鏡に映るパンツ一丁の男を、この僕だと認識している時点で、施術の失敗は明白だ。他人の夢など見た覚えはないし、ここが他人の夢ではないのも明らかだ。
バカにされた!
心中怒りが込み上げてきた僕は、理性的にズボンを履いてドリーム・シェアリングへと向かった。

着くや否や、紫の男目掛けて怒号を挙げる。
「金を返せこの詐欺師め!」
「やはり来ましたか。」
紫男は笑顔を緩めずに、客人用の椅子に座るよう進めてきたが、僕は拒んだ。

「やはり?ふざけやがって。言っておくが僕は一度たりともお前を信用していなかった。
上手く騙せたと思うなよ。」
「貴方は勘違いをなされている。私の話を聞いてください。」
「いいか、幾ら弁明しようとしても無駄だ。お前は施術中の説明で、“効果は一日で出る”と言っていた。今さら条件を付け加えようとしたってそうはいかないぞ。」
「偏執的ですね。そんなことは言ってませんよ。
私が言いたいのは、貴方は予知夢など見ていなかったという事です。」
「なんだと?」

一度落ち着くためにと、紫男は再び椅子を進めてきたので、今回は従う事にした。
「まず始めに、今は“夢”ですか?」
「わからん。」 
紫男はふむ、と頷いて続ける。
「貴方はいつから予知夢を予知夢だと認識していましたか?」
「わからん。物心ついた時からこうだった。」
「やはり。」
紫男はテーブルの上でろくろを回しながら説明を始めた。
「いいですか、夢という物は、その中にいる事を認識するのは極めて困難なのです。
貴方のように生まれつきそのような性質の方なら、尚更夢と現実を混沌としてしまうでしょう。」
「つまり何が言いたい?」
「貴方が予知夢だと思っていた方が“現実”で、貴方が現実だと認識していた方は“夢”なのです。
つまり貴方は夢の中で現実をトーレスしていた。」
「馬鹿な。」
すると紫男は、猜疑的な僕に一枚の紙を突きつけた。そこには殴り書きされたような文字がある。
 
“施術は、貴方が今を現実だと認識してから行います。”

その後に、僕の筆跡でサインがあった。
「施術前にサインして頂いたものです。見覚えは?」「ある。」
紛れもなく。
「その後施術なされましたか?」

その後、僕は、施術を?

「...していない。僕は、二度目だと認識出来なかった...。」
「そうです。“一度目”なので貴方はデジャヴを感じなかった。そして施術せずに家に帰った。
なのに今、行われていない施術に文句を言われている。つまり“二度目”では施術した記憶がある。ここで貴方の夢と現実は完全に解離された。」
紫男の言う通り、今が一度目なのは明白だ。しかし僕は食い下がらなかった。
「だとしても、こっちが予知夢かもしれないのは事実だ。」
「それは今日証明できますよ。」
紫男は、見覚えのあるファイルの束を僕に突きつけた。
「さて、どの夢にします?」
僕は紫男が言ってる意味が分からなかった。
“どの夢にします?”の意味は分かるが、前後との脈略が理解不能であり、考え込んだせいで、僕の言葉は喉元を通る前に詰まった。
ようやくでた言葉が「は?」だ。

僕の台詞に怒りの気色があったにも関わらず、
男は笑顔を崩さない。
 
「貴方が“昨日の二度目で施術した”というのに、一度目に影響が出てないのは、貴方が夢の中で施術したからだと私は考えています。
つまり、今、一度目で施術をして結果を出せば、こちらが現実だと、証明されるという訳です。」

反論の余地はなかった。
彼の言うことは正しい。
だが何故か、僕の中で釈然としない何かがあった。

「さて、どの夢にします?」  
僕は暫くの沈黙後に鼻を鳴らし、ファイルを手に取った。  
「そうだな...。この可愛らしい猫ちゃんと戯れる夢にするよ。ストレス解消にも良さそうだ。」
「良いですね。この夢は男性に大人気なんですよ。なんせ夢の提供者が女子高生だから。」

思わず笑みを溢した僕を眺めて、紫男は言葉をつぐ。
「ようやく私のジョークで笑ってくれましたね。一度目は自然な笑顔が見られるので嬉しいです。」

しかし、紫男のこの一言が僕の時を止めた。
紫男は墓穴を掘ったのに気づいたのか、初めて顔を強ばらせた。僕はすかさず詰問を投げ掛ける。

「何故“二度目”に僕が笑わなかった事を知っている?」

紫男の顔はドンドン強ばっていった。姿勢も強ばって、丸まっていった。目が大きく見開き、顔や耳がつり上がってきた。体のあらゆる箇所から、スーツの上からも、短い毛が生えてきた。

紫男は紫の猫になった。

紫猫の雄叫びとも取れる鳴き声と共に、世界が歪んだ。空間がひび割れて、欠けていく。
重力が上下に激しく働き、僕の体を揺さぶる。

ここは一度目か、二度目か、夢か、現実か。
僕の考える全てが視覚化され、目の前を占領し、一気に弾けとんだ。

眩しい。
瞼が開くと共に、あらゆる五感が流れ込んできた。
僕は目覚めたのだ。

「どうでした?夢の中で夢を見る男の夢。
かなりレア物だったでしょ?」
紫色のスーツを着た男が、僕の頭のに取り付けられていた装置を手際よく外す。
「あぁ、凄くリアリティがあって、まだこっちに現実味がないよ...。」
「あはは」

僕はドリーム・シェアリングで夢を見ていたんだ。
目覚めた今となっては、“一度目”も“二度目”も夢の中だったと分かる。それほど目の前が鮮明だった。

それにしても夢は面白い。
あんなにも五感が鈍い虚偽の世界なのに、その中が現実だと疑えない。まあ、感覚が鈍っていて気づけないという線もあるか。
ふと、夢の中で聞いた、紫男の台詞が脳裏をこだました。

「夢という物は、その中にいる事を認識するのは極めて困難なのです。」
 
不鮮明である冷気が、僕の背中を撫でていった気がした。

 

クリストファー

『最近友人たちの反応が、やけによそよそしい感じがする。まるで俺と初めて出会ったかのように接してくるんだ。ひどく悲しい。やっぱり僕の理解者は君だけだよアリス。』
『アリス、もう寝ちゃったかい?もし起きてるなら電話してもいいかな?』
『薬をまた、やってまった。でもだけど、まったくぜんぜ、ん癒えないよ私は。アリス、君が、私の真実だ。君なしじゃあ、現実なんてありはしないだろう?』

 

『re:おはようクリストファー。
ごめんね、昨日は疲れてすぐに寝ちゃってたの。それと、前も言ったけど電話は親に怒られちゃうからダメなの。』 
『いいんだ、気にしてないよ。僕もすぐに寝てしまってたからね。
学校が終わればまた連絡するよ。愛してるよアリス。』

最後の文章を送信し、重たい身体をベットから起こし、僕は身支度を始めた。


僕はアリスと出会い系サイトで知り合った。
これを話すと周りの人間は反対してくるか、偽善的で上部だけの許容を僕に向けて語り出す。

だが、後者は前者と同義だ。
“僕が悪いことをしてない”と態々説明してくるのは、世間一般ではネット上での出会いが悪いことだという前提が、 そいつの脳裏にあるからだ。
直接バカにしてくる奴等より、そういう偽善者のが何倍も腹が立つ。

 

僕にとってアリスは現実だ。
学校の友人に隠し事はしていても、アリスには何でも打ち明けれる。アリスほど僕を理解してる人間はいないし、事実この世界の何処かにアリスは存在してるのだから、バーチャル上の出来事だとはとても思えない。

そして、アリス以外が偽物だという根拠に、学校へ対する僕の拒否反応も含まれるだろう。
陽が窓から差し、時計が気になり出すと胸がムカムカし、玄関で靴紐を結ぶ時には吐き気が荒々しく僕の心臓をノックする。

通学路で友人に会おうものなら最悪だ。
突然ネットの世界など消えてなくなってしまったかのように、こっちの世界にピントが合う。
これにより受けるストレスは膨大だ。
だから僕は毎朝幻覚剤を打ち、虚無感に襲われる前に家を出る。
そのせいで僕はおかしなやつと思われてるらしいが、その方が幾分かストレスはマシだ。


「おはよう。」
前に、友人の、マイケル。彼は金髪で、キラキラし、てて体がでけえ。
「マイケル、やあ、クリストファーだ」
「分かってるよ」
最初は笑ってくれたのだけども、馴 れてしまって、最近の態度のマイケルはよそよそしく思う。

「クリストファー、最近アリスはどうなんだ?元気か?」
マイケルと違って、横にいたジョーとカーズはニヤニヤしてる。私もそれでニヤニヤした。
「アリスは、電話で親に怒られるから、悲しいんじゃないかな?僕も、親に怒られると悲しいし、皆も悲しいでしょ?」
ジョーとカーズはワハハハと笑った。マイケルはよそよそしい。なのに、私の肩をつかんで「行こう」ってジョーとカーズを置き去りにした。
マイケルは酷いやつだなあ。やれやれ。

 

昼頃になると、僕は保健室で目を覚ました。
酷く頭痛がする。午前の出来事を思い出そうとしても、抽象的にマイケルたちに会ったことしか思い出せない。まぁ、いつもの事なのだけども。
保険室の先生は昼食で部屋を空けてるようだったから、僕は独断で早退することにした。

 

家に帰り、パソコンを開くと、数分前にアリスからメールが届いていた。学校は違うが、アリスも学生なので、昼に連絡があるのはすごく珍しい。

『なんか心配になって、学校のパソコン使って連絡しちゃった。もう昼休み終わっちゃうから返事は出来ないけど、困ったことがあれば言ってね?』

こんなとき、アリスがいとおしくて堪らなくなる。
彼女は誰よりも僕の危機を察してくれるし、最高のタイミングで慰めてくれる。
あぁ、好きだ好きだアリス。愛してるよ。


よるになると、私はよるごはんをたべるから、リビングに行ったよ。 
サラダのドレッシングのあじがしない気がするから。もっといっぱいドレッシングかけようとすると、お母さんがとめた。
仕方なく、味のないサラダをたいらげた。

わたしは、昼間のアリスとの事が嬉しかったので、お母さんに話したの。お母さんは困った顔だ。
おとうさんが怒った顔ではいってくる。
「またその話か、いい加減にしろ。」
お母さんがお父さんをとめたら、お父さんはもっと、怒った。
ジェシー、この子は現実が見えてないんだ。ありもしない妄想に耽ってる。もう俺は沢山だよ!」
あ、ジェシーとはお母さんのことなのだ。
「この子も辛いのよ、分かってあげて。」とジェシー。わたしはジェシーのが好きだな。お父さんにムカついてきたので私は部屋に行った。部屋とは自分の部屋のことだ。
お父さんはわたしをほかしてあたらしい、子供を作ろうとしてるとおもう。罠かもなと思った聡明なわたしは、部屋にあるゴミ箱を部屋の外に、だした。
ドアの向こうで、お父さんの怒鳴り声が聞こえる。
声で耳を潰して、私の事をほかそうとしてるにちがいない。と私は恐怖でいっぱいだ。

 

『アリス、助けてほしい、お父さんに殺されてしまうよぼく。まだ死にたくない。』
『アリス、今度会えないかな?寂しいよ、前は会えたのになんで今は無理なのだい?』
『アリス、今日君でオナニーしたよ、もっと君の写真をちょうだい。』
『なんで無視するの?アリス、見てるんでしょ?』
『死のうかな、どうせ殺されるんだし』

 

『ごめん、クリストファー。親がうるさくて勉強してたの。』
『いいんだアリス、気にしないで。ところで今度会えない?』
『そうね、時間があえば私も会いたい』
『今週の土日はどう?』
『ちょっと忙しいかも、暇なとき連絡するよ』
『前もそう言ったじゃん』
『今度は絶対約束する!』

アリスの絶対が守られることが少ない事を僕は知っている。去年の8月にも会う約束をしたが、彼女は現れなかった。
昔は毎日のように会ってくれたのに、もう僕に興味がないのかいアリス?

 

朝、頭痛がする。昨日の夜の事がハッキリと思い出せない。部屋には注射器が無造作に転がっていた。
メールの履歴をみると、僕はアリスに酷い悪罵を浴びせていた。
内容を見ていると、吐き気が催してきたので、僕はパソコンを閉じ、逃げるように学校へ向かった。
途中で僕は最悪の事態に気がついた。
幻覚剤を家に置いてきてしまったのだ。シラフで過ごすなんて耐えられないので、家に引き換えそうと思ったが、マイケルに捕まってしまった。

「おはよう、クリストファー。顔色悪いけど大丈夫か?」
「あぁ、大丈夫だよ。」
忘れ物したとでも言い訳して引き返せばよかったのだが、シラフの会話に慣れてない僕の思考は完全停止していた。
隣にマイケルがいる状態で学校へと歩が進む。妙な沈黙が辛い、何故今日に限ってジョーとカーズはいないのだ。

 

学校についても僕は誰とも話さなかった。というより、話せなかった。
ジョーとカーズはいつも通り僕をおちょくってくるが、僕はいつもと違っておかしな事を言わないので気味悪がられた。

昼休みになると、騒音のする教室に耐えきれなくなり、教室を出た。
しかし、一人で飯が食べれる場所をよく知らないので、弁当箱を片手にキョロキョロ歩き回っていると、マイケルが僕を見つけて肩を押しながら屋上へと連れていった。

 

「大丈夫か?今日変だぞ?」
「変なのはいつもの方だよ。」
僕は横に座ってるマイケルを気にしながらご飯を食べ進めた。間が空くと一人になりたくなる。

「いや、今日は変だ。落ち込んでる気がする。
何かあったのか?」
マイケルも市販のパンを開けながら、話しかけてくる。
「君にいっても分からないよ。」
「言えよ、アリスの事だろ?」
沈黙後しばらくしてから、頷いた。
「酷いことを言ってしまった。」
「アリスは気にしてるのか?」
「分からない。」
話しながらだと、食が進まないので、僕は弁当箱の方を閉じて、鞄に直した。
「今日アリスに会って謝るよ。」
「それはやめとけ。」
マイケルも食べかけのパンをビニール袋に戻す。
「なぜ?」
「それは...」と言葉を詰まらせたあと「危険だよ、会うなんて。」と、取って付けたような理由を述べた。

「そんなことないよ。過去に何度も会ってる」

僕はアリスを否定されたような気がして、少しイライラしていた。

「とにかく、やめとけ。彼女とちゃんと話してからにするべきだ。」

「君には関係ないだろ」

僕は弁当箱を置き去りにし、屋上から出るドアを開き、階段を降りていった。

後ろからマイクが追ってきた。

「待て何処にいく気だ。」

「アリスの元だよ」

「まだ学校だろ」

僕は無視を決め込み、アリスの家へ向かうことにした。「まてって」マイケルが服をつかんで引き留めようとした時、僕のシャツのボタンが幾つか引きちぎれて、床に散らばった。

「あ...ごめん...」マイケルはすぐに手を離した。

僕はマイケルを睨み付け、金切り声をあげて、廊下を走っていった。

マイケルはそれ以上、追ってこなかった。

 

アリスの家に着き、インターフォンを押すと、低い女性の声が聞こえてきた。恐らくアリスの母親だ。

「だれでしょう?」

「僕、クリストファーです。アリスが帰ってくるまで待たせてくれませんか?」

息が切れていたので、台詞が何度か詰まったせいで聞き取れなかったのか、女性は再び尋ねてきた。

「え?誰ですって?」

「クリストファーです。クリストファー・ローソン。」

「な...」

インターフォン越しで無くても聞こえるくらい大きな金切り声がした。

「バカにしてるの!!?ふざけないで!!警察よぶわよ!!」

「え?何故ですか、僕はただアリスに...」

アリス母は、僕の話を聞かずに、思い付く限りの悪罵を僕に浴びせてインターフォンを切った。僕は仕方なく、家から少し離れた場所でアリスを待つことにした。

 

夕方になると人が現れた。

しかし、それはアリスではなく、マイケルだった。

「ごめん、シャツの事謝りたくて来たんだ。」 

「もういいよ。」

「...待ってるのか?アリスを」

僕は素っ気なく頷いた。

「家にはいったのか?」

また頷く。

「追い出されたんだろ?」

僕はマイケルの方を凝視して、再び頷いた。

「何故わかった?」

「分かるさ、君は現実がわかってない。」

僕はマイケルの発言の意図が汲み取れず、再び聞く。

「どういう意味だ?」

「君は現実から逃げてる。」

やっと意味がわかった僕は猛烈に反駁した。

「逃げてる?ネットで出会ったアリスを愛してることがか?分かってないのは貴様だマイケル。俺にとってアリスが現実なんだ。」

「そうじゃない。何も分かってないよお前は。」

僕はバカにされた気がしてイライラした。

「結論を言えマイケル。」

「言ったらお前は傷つく。」

「構わない。」

 

マイケルはため息をつき、自信のスマホを開き、メールを開いた。

そこには“僕がアリスに送った筈のメール”があった。

「俺はアリスだ。」

マイケルは端的に述べた。

しかし僕はまだ理解できずにいる。したくもない自分がいる。

「そして、クリストファー。」

マイケルは俺を指差した。

「お前も“アリス”だ。」

「は?」

僕はまた、発言意図を見失った。

「お前はアリスなんだ、アリス。現実を見ろ。」

マイケルはスマホのインカメを起動して僕に突きつけた。

そこには“アリス”が写っていた。

 

「なにがどうなってるマイケル。これはなんだ?僕は...」

「アリスだよ君は、クリストファーは去年事故で死んだ。」

血の気が引いた。

そして僕には、その記憶が確かにあった。

 

去年、クリストファーと会う約束をした私は、救急車の音を聞いた。野次馬気分で救急車の元へ駆け寄ると、そこで私は血まみれになったクリストファーを見た。

交通事故だったらしい。

それから私は......私はどうなった?

私は、僕になっていた。

クリストファーとして、生きていた。

愛するクリストファーを、私は死なせたくなくて、自分の中に閉じ込めたのだ。

幻覚剤を摂取し始めたのも、丁度その頃だった。

私はアリスを殺したのだ。

 

「アリス、正気に戻ってくれ、クリストファーのことは忘れるんだ。」

「い、いやだ。僕はクリストファーだ。」

「違う、彼は死んだ。お前がさっき訪ねたのもクリストファーの家だ。」

「そんな筈...」

いや、確かにそうだ。

表札にはクリストファーのラストネームが書かれていた。

私はそれを見てみぬフリをしていた。

 

「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ僕はクリストファーだ。クリストファーは生きてるんだ。」

汗と涙が混じって、鼻筋から地面へ落ちた。

マイケルは私をそっと抱きしめ、髪を撫でた。

「アリス、俺は君が好きだ。君でいてくれ。」

私はマイケルを突き飛ばした。そして身を守るように手をX字に組んだ。

「アリスが好き?貴方が話してたのはクリストファーだろ?アリスの事何も知らないくせに、ふざけるな!アリスは僕だけのものだ!」

「現実を見ろアリス。君が話してたアリスは俺だ。そして俺らは愛し合っていた。」

「違う、お前だと知っていたら違った。お前が嫌いだ私は!」

私はまた走り出した。もう疲れきっていたがそれでも走った。それでも思考は脳内をかき回してくる。

 

私はクリストファーじゃなくてアリスで、でもアリスを愛していて、そのアリスがマイケルで、マイケルが愛してるのはクリストファーじゃなくてアリスだから、私が知ってるアリスはアリスを愛してることになって...

頭がおかしくなりそうだ。

 

私が愛してたのは結局誰だ?マイケルか?アリスか?クリストファーか?

そんなことは分かる筈がない。私が誰なのかも今知ったと言うのに。

 

疲れはてて地面に倒れこんだ時、白線が見えて、私は今道路の真ん中にいる事に気がついた。

後ろから「危ない」とマイケルの叫び声が聞こえてきたが、直ぐにトラックのクラクションと、衝突音にかき消される。

 

消え行く意識の中で、私はクリストファーが死に逝くのを悟った。

 

微かにへたりこむマイケルの姿が見えた。

アリスはまだ、生きてるかも知れないな。

その時、意識は完全に消滅した。